“ポーランド アウシュビッツに続く鉄道”


 国電に乗ってオシフィエンチムへ

ポーランドの南部、スロバキアとの国境まで100km程度のところに、古都クラクフがあります。クラクフは、14世紀後半から16世紀後半までの200年あまりにわたってポーランド王国の首都であり、ウイーンとともに中央ヨーロッパの文化の中心でした。

第二次世界大戦で戦場となったポーランドにあって、この街は占領したナチスドイツ軍が司令部を置いたため戦災を免れ、中世から続く歴史的な街並みは世界遺産に登録されています。

▲ クラクフ中央駅 クラクフと近郊の都市を結ぶポーランドの国電

ポーランド国鉄のクラクフ中央駅から、旧型国電とよぶにふさわしい、古ぼけた近郊電車に揺られて西へ1時間半あまりのところに、小さな町オシフィエンチムがあります。駅前では、バスがポーランド国立オシフィエンチム博物館へ向かう乗客を待っていますが、博物館までは歩いても行ける距離です。

▲ ポーランド国鉄オシフィエンチム駅 市内バスがアウシュビッツ強制収容所前を通る

ポーランド語ではオシフィエンチムですが、第二次世界大戦中にポーランドを占領していたナチスドイツ軍は、ここをドイツ語でアウシュビッツとよびました。ユダヤ人を中心に、ヨーロッパ各地からアウシュビッツ強制収容所に連れてこられて殺害された人々は、110万人とも150万人ともいわれていますが、正確な数字は今もわかりません。

当時のアウシュビッツ強制収容所とビルケナウ強制収容所は、今はオシフィエンチム博物館として、広島の原爆ドームと並ぶ負の世界遺産になっています。

▲ 前方にオシフィエンチム駅 右に分かれていく線路がアウシュビッツ収容所へ続く

オシフィエンチム駅近くの陸橋から見ると、アウシュビッツ強制収容所に向かう引き込み線が分岐しているのがわかります。バス通りに並行して引き込み線が延びていますが、今では途中の区間が途切れています。

 

 アウシュビッツ強制収容所

1940年にポーランド軍の兵舎を使って、ポーランドの政治犯を収容するために設けたアウシュビッツ収容所に続いて、1941年に鉄道線路の向こう側に2kmほど離れた場所にアウシュビッツ第2収容所ビルケナウが、さらに翌年には第3収容所(ソ連軍に破壊され現存しない)が開設されました。

▲ ドイツ語で“働けば自由になる”のスローガンが掲げられたアウシュビッツ収容所の門

組織的に行われた絶滅計画、ホロコーストの場所にアウシュビッツが選ばれたのは、ヨーロッパ各地と鉄道で結ばれて交通の便が良く、収容所建設のための広い土地が確保できたからといわれています。

アウシュビッツ強制収容所の入り口には、ARBEIT MACHT FREY、働けば自由になるとドイツ語と書かれています。現実は正反対と知っていて、収容者が作ったのでしょう。

▲ 収容所は高圧電流の流れる有刺鉄線で二重に囲まれている 右の黒い建物は監視塔

収容所は、細かく張り巡らした二重の有刺鉄線で囲われ、そこには高圧電流が流れ、ドクロマークの看板を掲げて近づかないように警告しています。要所要所には監視塔が設けられています。

▲ 収容者が建てた煉瓦造りの収容棟が残り一部は展示館に
収容者が植えた苗木が60年を経て大きく育った

収容者の強制労働で造られた煉瓦造りの収容棟が今も残り、その中は監禁室や鞭打ち台・移動絞首台などが展示されています。また、別棟では収容者が持ち込んだ鍋や食器から衣類や靴、鞄、眼鏡まで、各部屋に山積みに展示されています。

身体障害者も排除の対象としたのでしょう、大量の義手や義足までも。織物の材料にした髪の毛から、多くの人命を奪った青酸ガスを発生する薬品、チクロンBの空き缶まで、部屋にいっぱいのとてつもない量です。

▲ ガス室 中央には隣接してもうけられた焼却炉の煙突がそびえる

収容者から取り上げた宝石や貴金属から金歯まで、収容者を送り込んできた貨車に乗せてドイツ本国に送り出していたとか。

敷地の一角には、ガス室が復元されています。建物内に隣接して死体を焼却する炉が設置され、毎日収容者の手で流れ作業で殺人工場が操業していました。ナチスドイツ軍は、指示をするだけで直接手をくださないシステムにしていたとか。

▲ 集団絞首台の横棒の下で青と白のスカーフをした老人は元収容者と思われる

1945年のソ連軍の進攻によりアウシュビッツ強制収容所は解放され、数千人の収容者が生還します。復元された集団絞首台の前で家族と一緒でしょうか、アウシュビッツを訪れていた青と白のスカーフをした老人は、生還者の一人のようです。

アウシュビッツには、世界各国の人々が訪れていますが、イスラエルからでしょうか、ダビデの星を描いたおそろいのトレーナーを着た学生の集団も、複数のグループを見かけました。彼らにとっては、ここは巡礼の地なのでしょう。

 

 ビルケナウ強制収容所

アウシュビッツが手狭になったため近くのビルケナウに、より広大な敷地の第2強制収容所が造られました。この間には、夏期のみシャトルバスが運行されています。

行く手にビルケナウの入り口、死の門が見えてくると、道路に並行して線路が突然姿を現します。オシフィエンチムからの引き込み線は、今では途中区間が撤去されているようです。

▲ 死の門をくぐって線路が収容所内に入ってくる

死の門をくぐった線路は、ポイントで分岐して3本の留置線に分かれています。ナチスドイツの最盛期は、ヨーロッパ中に広く勢力を伸ばし、北はノルウェー、南はギリシャからも、移住するとだまされた人々が貨物列車でここに送り込まれてきました。

▲ ヨーロッパ各地から毎日貨物列車がこの側線に収容者を送り込んできた

引き込み線の両側には収容棟が立ち並び、一部は今でも残っています。はじめの頃は煉瓦造りだったため現存していますが、押し寄せる収容者に対して建設を急ぐため、途中からは木造のバラック造りになり、一部は復元されているものの他は破壊され朽ち果てています。

▲ 線路の終端は命の終端でもあった この場所の左右にガス室が設けられていた

それでも収容可能な人数をはるかに超えるため、貨車から降ろされた人々は線路脇の通路で強制労働に使えるか否かで分類され、老人や女性、子供など、多くは直接ガス室に送られたとか。

▲ 煉瓦造りの収容棟はそのままの形で残っている

煉瓦造りの収容棟の内部は、当時のままの三段ベッドが残っています。ここに大勢の人々が詰め込まれ、劣悪な環境のもとでの伝染病の蔓延や冬の寒さにより命を落とす人も多かったそうです。

▲ 収容棟の内部 三段ベッドに収容者が詰め込まれていた

別棟でトイレも残っていました。収容者にプライバシーなど無く、衛生管理も劣悪と見受けました。誰が手向けていったのか、一輪のバラがしおれていました。

▲ トイレ棟の内部 誰が手向けたか一輪のバラがしおれていた

木造の収容棟が朽ち果てたあとに、基礎のコンクリートと煉瓦造りだった暖炉とその煙突だけが規則正しく立ち並び、異様な風景を作り出しています。

▲ 木造の収容棟は朽ち果て基礎のコンクリートと煉瓦造りだった煙突だけが立ち並ぶ

線路の終点の先には、半地下式のガス室と焼却炉が設けられていました。ここでもナチスドイツ軍は直接手をくだすことなく、殺人工場は収容者を使ってフル回転で操業が行われていたのです。

▲ ガス室に降りていく階段

ソ連軍の進攻を察知して撤退する際に、証拠隠滅をはかるためにナチスドイツ軍によって爆破されたガス室と焼却炉の瓦礫が、今でもそのままの形で残っています。すぐ隣には、焼却後の遺灰を捨てた池が、静かに水をたたえています。

▲ ガス室の隣にある焼却したしたあとの遺灰を捨てた池

 

 アウシュビッツの見学を終えて

広島の原爆資料館、沖縄のひめゆり平和記念資料館、知覧特攻平和会館、中国の南京大虐殺記念館、タイの戦場に架ける橋の捕虜収容所、東京九段の靖国神社遊就館、そして今回アウシュビッツを直接見てきました。

わずか60年前に、行き先を告げられずに再び帰ることのない片道切符のような形で貨物列車に乗せられ、ここに送り込まれて一生を終えた100万人を越える民間人がいました。それを国の政策として実行したのは、民主的な選挙で選ばれ、圧倒的な人気で国民の支持を得た政権でした。

300万人を超えるに日本人に加え、アジアで2000万人の犠牲者を出し、最後には特攻機や人間魚雷の隊員に、片道だけの燃料で太平洋に散ることを命じた、アジアにおけるナチスドイツの同盟国の政権も、基本的には同じです。

国民が派手なパフォーマンスに乗せられると、道を大きく誤る危険が付きまといます。

一方では、戦後に中東に割り込む形で土地を奪って建国した、ホロコーストで最大の犠牲を払った民族の国は、周辺の国や地域に対して国際的な非難を無視してまでも、過剰防衛の域を遙かに超えた行為を行っていますが、その原点を見た思いがします。

アウシュビッツは入場無料です。ポーランド国立オシフィエンチム博物館ですが、その運営資金の多くはドイツが負担し、距離的に近いこともありますが毎日大勢のドイツ人がここを訪れています。

当日は、他にアジア人をほとんど見かけなかったのですが、博物館のガイドさんから日本人の来訪者は年間わずか7000人、韓国人はその3倍以上の25000人と聞きました。何を意味するのでしょうか。

ポーランド国立オシフィエンチム博物館の公式ホームページ、アウシュビッツ−ビルケナウは、こちらをご覧ください

 

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