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旅の車窓から

台湾 阿里山森林鉄路 編

台湾中部 北回帰線の通る街 嘉義から阿里山へ 阿里山森林鉄路の旅にご案内します。


準戦時下の台湾へ

1987年の年末に台湾に出かけました。2度目の海外旅行です。この旅行の目玉は、北京・広東・四川・上海etcの中国本土各地の料理を賞味することと、台北の故宮博物院や高雄の仏光山などの文化遺産をゆっくり見て回ること、それに阿里山森林鉄路で阿里山に登り、御来光を見ることです。私にとって、はじめての海外の鉄道への乗車の機会です。

当時の台湾の状況は、毛沢東との内戦に敗れて中国本土から台湾に渡り、中華民国の亡命政権を樹立した蒋介石総統の死後、後継者となった蒋経国総統のもとで国民党の一党独裁が続いていましたが、38年にわたって共産党の支配する中国本土と戦争状態にあった戒厳令が解除されたばかりで、民主化が芽生え始めてきた時期です。それでも、JAA日本アジア航空機が桃園の中正国際空港に上空に近づくと、軍事機密の関係から窓から地上の撮影を禁止するアナウンスが流れました。

台北に2泊した後、高速道路で嘉義に向かいます。途中の長い直線区間に中央分離帯の設けられていない部分があります。戦争時には戦闘機の滑走路になるようにつくられているそうです。

※ 5ページ目の末尾に阿里山森林鉄路に関連するリンク先があります。
詳しく知りたい方はご利用ください。


阿里山森林鉄路の概要

海抜30mの台湾国鉄西部幹線の嘉義駅から2216mの阿里山駅まで、線路幅762mmのナローゲージ、全長約70kmの阿里山森林鉄路は、伐採した檜を運搬する目的で日本の統治時代の1914年に開通しました。阿里山から奥地へも、木材積み出しの専用線が多数ひかれたそうです。今でもその経営には、日本の林野庁に相当する中華民国行政院農業委員会林務局があたっています。

使用された蒸気機関車は、車体の右側に縦にシリンダを持ち、ユニバーサルジョイントとベベルギヤを介して前後のボギー台車を駆動する、急勾配、急曲線に適した構造のシェイ式機関車で、1911年から1917年にかけてアメリカのリマ社から輸入されました。1950年代になると、日本製のディーゼル機関車の使用が始まり、SLからDLに置き換えられていきました。

日本と同様に、台湾でも林業の衰退と共に阿里山森林鉄路による木材輸送は無くなりましたが、かつては新婚旅行のメッカといわれたほど阿里山は台湾有数の観光地です。1982年に阿里山公路が通じるまでは道路がなく、鉄道が唯一の交通機関であったため、沿線の人々や生活物資の輸送と観光客輸送にあたってきました。

阿里山公路開通後は、速くて安いバスが運行されるようになり、利用者が激減した鉄道は存続の危機を迎えました。一時期は廃止も検討されたそうですが、山上の阿里山から石猴までの全長14kmの専用線を観光路線に転換して眠月線として一般旅客営業をはじめ、さらに1986年には玉山への日の出を見る観日楼へ眠月線の途中から分岐する4kmの新線祝山線を建設して、観光鉄道として再生し現在に至っています。

本線は、最急勾配が碓氷峠にほぼ匹敵する62.5‰、獨立山の三重ループ線と途中3回のスイッチバックで2200m以上登ります。万が一連結器が破損しても客車が暴走しないように、安全のため機関車は常に嘉義側に連結され、阿里山行きは先頭の客車の片隅に運転台を設けた、プッシュプル運転が行われています。登るにつれて、車窓の植生は熱帯から暖帯、温帯へと変化していきます。スイッチバックの関係で、終点阿里山近くの神木−阿里山間は、急勾配をDLが引き上げます。

1999年9月の台湾大地震で、震源に近い阿里山森林鉄路は大きな被害を受け、運転を再開したのが、祝山線は2000年1月、本線は2月からだそうです。

阿里山森林鉄路ホームページの時刻表によると、本線の列車は、毎日運転が上山は嘉義13:30発で各駅に停車し、3時間半かけて阿里山に17:03に到着する列車、下山が阿里山を13:20発で嘉義着が16:50の1日1往復のみとなっています。この他、土曜日曜と桜の開花の時期のみ運転が嘉義発9:00と阿里山発13:40に設定されています。このほか、休日には阿里山−神木間の区間運転もあります。

御来光を見に行く祝山線の時刻は、季節により変動しますが早朝に3往復(休日は往路のみ6本、復路は2本併結だと思われますが3本)、運転されています。眠月線には昼間に2往復がありましたが、現在は時刻表に見つからないため、運行を止めたのかもしれません。