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ドイツ5日目は5月1日、メーデーの祝日。午前中は同行者とベルリン市内をめぐり、午後からミュンヘベルクにある保存鉄道に乗りに行く計画。ベルリン市内のドイツ鉄道DBや地下鉄Uバーン、シュトラッセバーン(トラム)やバスに共通の1日券は、ミュンヘベルクは有効範囲外。1日券に加えてその有効範囲の端の駅からミュンヘベルク往復を加えた切符の買い方がわからないので、DBのインフォメーションで尋ねてみたら、
▲ アレクサンダー広場駅のインフォメーション
インフォメーションの担当者が一旦窓口を閉め、この券売機に並んで発券の操作をしてくれた。DBは親切だ。
▲ DBの券売機
アレクサンダー広場から、UバーンのU8系統に乗ってベルナウアー通り駅で下車。線路の横には第三軌条があるので、壁の落書き中に触れると感電するよ。
地上に出ると、そこは1961年の建設から1989年の崩壊まで、ベルナウアー通り沿いに東ベルリンと西ベルリンを隔てるベルリンの壁があったところ。5年前にも来ているけど、初ベルリンの同行者の案内を兼ねて再訪することに。
▲ Uバーンのベルナウアー通り駅
ベルリンの壁は1枚ではなく、整備が進むと東の壁と西の壁の間の建物が撤去され、幅50mぐらいの緩衝地帯が設けられて、その中には東ドイツ兵が詰める監視塔。壁の崩壊後は道路などに転用されたところが多いが、ここは壁の跡が保存されていて、緩衝地帯が芝生の緑地となり、右側の鉄筋が立ち並んでいるところが西側の壁があった場所。その向こうは西ベルリンに属していたベルナウアー通り。左の生け垣が東側の壁の跡。
▲ 東の壁と西の壁の間の緩衝地帯
東側の壁は、アパートの壁面で代用していた部分もあり、緩衝地帯に面した全ての窓が塞がれた異様な姿。この写真の右端の落書きの部分が、今も残る東側の壁。
壁面に描かれているのは壁が建設される1961年に、有刺鉄線の境界を飛び越え西へ脱出する東ドイツの警察官をとらえた有名な写真、“自由への跳躍”。彼は東から西への最初の亡命者なのだとか。
▲ 壁に描かれた“自由への跳躍”
壁が撤去された通りから眺める旧東ベルリンの街並みと、シンボルのテレビ塔。
▲ 東ベルリンのシンボルテレビ塔を望む
ちょうど藤の花が満開。日本のような藤棚は作らずに、壁面に這わせている。
▲ 藤の花が満開
建物の側面には、1961年に壁が建設されてから1989年に崩壊するまでの歴史を伝える写真を掲示。
▲ 1961年から89年までベルリンの壁の歴史を伝える写真
建設当初は、このように窓からロープをつたって西側へ脱出もできたらしい。
▲ 窓から西に脱出する東の市民
ここにも壁の建設開始から崩壊まで、この近所の様子。
▲ 壁の建設が始まったとき
西側の壁の跡を示す鉄筋の向こうには西ベルリン。戦後に米国の援助でいち早く立ち直った西ドイツが、その繁栄を東側に見せつける、西側のショーウインドーとしての瀟洒なアパート群。
▲ 西の壁の位置を示す鉄筋
壁と緩衝地帯の跡は、Uバーンの駅からベルナウアー通りに沿って西へ、Sバーンのベルリン北駅まで約1kmにわたって保存されています。
▲ 今は芝生の広場になった緩衝地帯
緩衝地帯の中に取り残される形で建っていた和解教会は、1985年に東ドイツの手で爆破されて倒壊。東西統一から10年を経た2000年に、その跡地に建てられたのが和解の礼拝堂 。
▲ 和解教会の跡に建てられた和解の礼拝堂
その内壁は、破壊された教会のガラスやタイル等をがれきの中から拾い集め、土に混ぜて層状に突き固めたものでできているのだとか。
▲ 礼拝堂の内部
また近くには、教会にあった3つのオリジナルの鐘が残されるとともに、和解の像が立てられています。
▲ 和解の像
壁の北側は、東西にトラムの走るベルナウアー通り。ここは西ベルリンだったところで、トラムが全廃されていた西ベルリンへ東ベルリンから、統一後に延びてきた路線。5年前の訪問時はベルリン北駅までだったが、その後さらに延長されている。
M10系統のトラムが停まる停留所名は“Gedenkstätte Berliner Mauer”、ベルリンの壁メモリアル。安全地帯がないけど乗降客優先の交通法規で、車道のクルマはトラムが停車している間は、ドアが閉まるまで後方で待たなければならない。
▲ ベルナウアー通りにあるトラムの停留所
トラムが走るベルナウアー通りに向こう側に建つ、ベルリンの壁記念センター。
▲ ベルリンの壁記念センターの前を行くトラム
その前に通りを挟んで、東西分断当時のままの姿で保存されているベルリンの壁。手前側の高い西の壁と、向こう側に二重になった低い東の壁の間が緩衝地帯。その中に建つ、屋上に探照灯を備えた監視塔。緩衝地帯にはセンサーが設置され、地雷が埋められたり警察犬が放たれていたところもあったのだとか。
▲ ベルリンの壁記念センター前の壁と緩衝地帯の中の監視塔
記念センター展望台から見おろす、トラムの走るベルナウアー通りと壁。向こうには和解の礼拝堂。
▲ ベルナウアー通りは西ベルリンに所属していた
前回の訪問時には、ベルリンの壁記念センターが休館中だったので、館内の見学は今回が初めて。19世紀末に建設された、ゴシック様式の和解教会が監視の邪魔になるとのことで、東ドイツの手により爆破され倒壊する姿を西側からとらえた写真。
▲ ベルリンの壁記念館の展示
緩衝地帯の跡に設置された追悼の窓。上下3段になって並ぶ多くの顔写真は、西ベルリンへの脱出を試みて命を落とした人々でしょう。
▲ 追悼の窓
枠には氏名、生年月日と凶弾に倒れた日が刻印。壁の崩壊を待てずに数ヶ月前に亡くなった若者の姿も。
▲ 西に脱出を試みて果たせなかった人々
ベルリン・ノルド(北)は、Sバーンの地下路線の駅。東西分断時には、この路線の東ベルリンに属する駅は全て閉鎖されていて、電車は通過扱いに。駅には東の鉄道員とその家族が、封鎖されたベルリン・ノルド駅構内の壁を飛び越えて地下の線路づたいに西ベルリンへ脱出した様子の掲示も。
▲ Sバーンのベルリン・ノルド駅
ベルリン・ノルドからのSバーンをフリードリッヒ通り駅で乗り換え、東西分断時には西ベルリンの中央駅的存在だったツォー駅(動物園前)で下車して、ヴェルヘルム皇帝記念教会へ。5年前にはこの近くのホテルに滞在したけど、教会の内部は見学していなかったので再訪することに。
歩道との間に新しくできたのは、何本もの太くて屈強な車止めのガード。
▲ ヴェルヘルム皇帝記念教会
ヴィルヘルム皇帝1世によるドイツ統一を記念して1895年に建てられたこの教会は、第二次世界大戦中の1943年に連合軍の空襲で大部分が破壊され、戦争の恐ろしさを伝えるモニュメントとして、残った塔の部分を崩れたままの姿で保存。
▲ 戦災を今に伝えるヴェルヘルム皇帝記念教会
▲ バラ窓が抜けている
内部の天井に残る色鮮やかなモザイクには、戦争の傷跡を残すひび割れや剥がれ落ちた部分の修復跡も。
▲ 教会の内部
隣には、1961年に建てられた新教会。教会にはには見えない、正八角形のモダンな建築。階段の白く見える部分は、石が新しくなっている。
▲ 隣に建てられた新教会
前回訪問後の2016年12月、クリスマスマーケットの買い物客で混雑していたこの場所に、大型トラックで突っ込み、12人の死者と多くのけが人がでるテロ事件が発生。階段の側面に刻まれた犠牲者の名前と国籍。写真が置かれ、生花や蝋燭が手向けられています。歩道との間に車止めを設けたのは、テロ対策でしょう。
▲ テロの犠牲者の名と国籍を刻んだ階段
ツォー駅前から、100系統の二階建て路線バスに乗って、ベルリンのシンボルブランデンブルク門へ。
▲ ブランデンブルク門
ここで市内観光を続ける同行者と別れ、午後からはベルリンの東、郊外にある保存鉄道を訪問することに。まずは、UバーンとSバーンを乗り継ぎ、ベルリン市街地東部のリヒテンベルク駅に向かいます。ベルリンのSバーンは第三軌条集電。線路の上に架線はありません。
▲ ベルリンのSバーン
リヒテンベルク駅は、今ではSバーンとローカル列車だけの駅だけど、東ドイツ国鉄当時は長距離列車も発着する主要駅の一つだったのだとか。
▲ リヒテンベルク駅のSバーン